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年に一度の日本社会学会の大会が、名古屋大学で開催されます。今年も大勢の研究者が集まって、報告と議論を行う予定です。どうしても院生の発表が中心になりがちなのが社会学系の学会の常ですが、日本社会学会は名のある先生方も院生に混じって報告されるので、緊張感があって久保田は好きです。院生は偉い先生の前で変な報告はできないと思い、教員は学生の前で醜態をさらせないと感じているのかもしれません。

久保田は6日(土)、一日目の午後に報告予定で、「買わずに自分で作ることの文化社会学―ジェンダーの視点からみた日曜大工とDIY」というタイトルで報告させていただきます。買わずに作ることは、シェアハウジングやスクワットを考える上でも重要な点で、当日は、G・ベッカーの家事生産理論、G・リッツァーのマクドナルド化概念などを用いつつ、日曜大工がDIY(Do it Yourself)へと変化していく様子を、新聞記事分析を用いてジェンダーの視点から報告する予定です。

一応、文化社会学の部会を希望していたので、タイトルにも「文化社会学」って入れたんですけど、サブタイトルに「ジェンダー」って書いたらジェンダーの部会に入ってしまいました。まあ、いいんですけど。去年はコモンズ論についてやったので都市部会、一昨年はスクワットについてやったので社会運動部会でした。社会運動部会は、聴衆よりも報告者や司会を含めたスタッフの数が多くて、でもそれなりに濃い議論ができて楽しかったですが。

また、今回の大会の目玉は、『リスク社会』論で有名なウルリッヒ・ベック氏と、エリザベス・ベック=ゲルンスハイム氏がご夫婦で来日され、講演されるとのこと。楽しみですね。

大会HP
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jss/research/conf83.html

大会プログラム

新曜社の小田さんから連絡があり、牟田和恵編『家族を超える社会学―新たな生の基盤を求めて』の重版が決定したとのこと。嬉しいですね。発売が去年の12月10日ごろでしたから、10ヶ月弱で初版が売り切れた形になります。

ひきこもり問題や、赤ちゃんポストについてのコラムも収録されていますので、歴史を遡るというよりは現代の家族問題から解きほぐすタイプの家族社会学の教科書、あるいは、堅めの教科書に続く二冊目の教科書や参考図書として授業などで活用していただければと思います。

沢山の人が読んでくれますように。


本の紹介記事
http://www.synoikismos.net/blog/2009/12/post-13.html

ケアと正義を考えるための最重要文献のひとつ、Eva Feder Kittay著「Love's Labor」(1999)の日本語訳が白澤社さまより発売になりました。岡野八代・牟田和恵監訳で、邦題は、『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』です。久保田も、第2部と第3章のロールズ批判の前半の訳を手伝わせていただきました。

キテイはアメリカの政治哲学者であり、本書も第II部を中心に哲学的な議論を含んでいますが、岡野・牟田両氏のご尽力により、たいへん読みやすい訳になっていると思います。特に、6章「私のやり方じゃなくて、あなたのやり方でやればいい。セーシャ。ゆっくりとね。」のように、エッセイ調で構成された章もあり、重度の知的障碍を持った娘さんとの関係の中で鍛えられたキテイの哲学の源泉を垣間見ることができます。研究者のみならず、日々ケアの現場で依存にかかわる労働を実践されている方々にも、手にとって頂ければ。

ちょっと高いですけど、翻訳書はどうしても値段が下げられないみたいで。



<本の紹介>
子育て、障碍者・病人・高齢者の介護など、主に女性たちが担ってきたケア労働。そのため女性は、社会的に不利な立場におかれがちだった。重い知的障碍を持つ娘との生活を送ってきたキテイが、ロールズ「正義論」を大胆に批判しつつ、女性たちの経験を包摂する真の男女平等はいかに実現されるかを問い、公正でケアの行きとどく社会への道しるべを提示する。

<著者紹介>
ニューヨーク州立大学ストーニー・ブルック校哲学科教授。女性学研究科教授、医学・共感ケア・生命倫理センター長を兼任。専門は、西洋哲学、フェミニスト倫理学、社会思想。

<目次>
第I部 愛の労働―依存は何を要請しているのか
 第1章 依存と平等の関係
 第2章 脆弱性と依存関係の道徳
第II部 政治的リベラリズムと人間の依存
 第3章 平等の前提
 第4章 社会的協働の恩恵と負担
第III部 みな誰か母親のこどもである
 第5章 政策とケアの公的倫理
 第6章 「私のやり方じゃなくて、あなたのやり方でやればいい。セーシャ。ゆっくりとね
      ―個人的な語り
 第7章 違いのある子どもへの母的思考

2010年の7月頃に、ブログtate-lab - 教育・学習について研究する院生のblogにて、『他人と暮らす若者たち』についての書評を頂きました。著者の舘野さん自身はシェアをしているわけではないのですが、かの有名な「まれびとハウス」にお知り合いがいるそうで、いろいろなシェアに遊びに行ったりインタビューしたりしながら考えを膨らませているようです。彼自身は、教育工学の院生さんだとか。

書評にいろいろと刺激を受けましたので、お礼もかねてリプライさせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。

さて、舘野さんは、シェア入門書としての拙著の意義に触れた後で、次のような問題提起をされています。まだあいまいな形の問題提起ではありますが、久保田もずっと悩んできたことなので、フライング気味に取り上げることをお許しください。


さて、ここからは私の勝手な意見になります。
この本はすごく面白いしまとまっているけれども、いま私がたまにお邪魔している「まれびとハウス」などの例をみてみると、この本に書かれているシェアハウス的な生き方より少し先を行っているような感覚があります。
この本には、シェアすることの魅力として、
・節約志向
・快適志向
・家族という役割を超えて
ということが書かれているのですが、
僕が通っているシェアハウスには、
・創造志向
というか、「ここから新しいつながりが生まれて、いままでにないものを生み出すのだ」という気概を感じるような気がします。
その「創造をつくる土台としてのシェアハウス」というのでしょうか。そういう側面はこの本には書かれていない部分であり、今後大事になる部分なのかなあと思いました。


おそらく、一般的には舘野さんのおっしゃるような、「創造の土台」としてシェアを理解すること、すなわち、異質な他者と出会い、知が交錯することで生まれる、クリエイティヴィティのようなものを、シェアに求めることはごく自然な流れだと思います。実際、シェアやスクワットをするアーティストやアクティヴィストは、共同生活にこの種の刺激と興奮を求めている側面は否定できないでしょう。久保田自身の経験からも、特に今は分野の違う大学院生4人で生活していますから、この種の刺激を受けますし、シェアをしていて良かったと思う理由のひとつではあります。

けれど、シェアの重点をこの種の刺激や創造性に置くこと、クリエイティブな潜在力を強調することを、久保田は、これまで極力避けて来ましたし、今でも消極的です。ですから、この点を大切にしている人が、新書を読んで創造性へ配慮が欠けていると感じられたとしたら全くその通りで、それは久保田が意識的に避けてきたからだと思います。この点を舘野さんに正面から指摘された形になり、正直ドキリとしました。

この点は、まだ上手く言葉にならない部分もあり、ちゃんと説明できるか分からないのですが、もう少し詳しく解説してしてみます。


1.目的別シェアと無目的シェア

まず、舘野さんが無目的性について書かれておられたので、それを軸に整理してみたいと思います。シェアに限らず、多様な人々が集まり、ゆるやかな目的を共有しながら、対話し、新しいものを生み出す空間は、「サロン」の理想としてこれまでも重要な価値を与えられてきました。舘野さんがおっしゃるような、(上手くいっている)大学院の研究室かもしれませんし、サークルの部室かもしれませんし、アーティストが集まるスクワットかもしれませんし、アクティヴィストが集うカフェのようなものかもしれません。新書でも紹介したCさんの例は、美大の男子学生3人による「アトリエ」のようなシェアとして、この種のシェアに分類できると思いますし、最近話題のphaさんたちによるギークハウスも、プログラマーさんたちの集まりとして、似た雰囲気を持っていると思います。

こうした、いわば「目的別シェア」には、たとえゆるやかであれ中心的な関心があり、この中心はシェアメイトを募集するうえでも、シェアを運営するうえでも非常に強力な回路を提供するでしょう。趣味を同じくする人が集まることで、対話の機会も増え、比較的似たものが集まり、経済的・非経済的な利害の摺り合わせを容易にするでしょう。映画好きが集まれば、大型テレビをみんなで購入したりDVDをシェアすることに抵抗が少ないでしょうし、パソコンオタクが集まれば、太いネット回線を引いたり電気代の不均衡を気にせずゲームができるかもしれません。料理好きが集まれば、調味料や調理器具を共同で買うのはずっと楽になるはずです。

これに対して、「目的別シェア」のように中心的な関心のないシェアを、「無目的シェア」と呼びましょう。正確には目的がないわけではなく、「住むために住む」という意味で、シェア自体が目的のシェアのことです。シェ アメイトとの関係は、この「共に住む」というプロジェクトとの関係で構築されます。シェアメイトを選ぶ段階で最も重要になるのは、趣味が同じかとか、一緒 に住んでいて面白い奴かとか、ギターが上手いかとか、知的刺激を与えてくれそうかではありません。生活時間が合うかとか、経済的な志向が似ているかとか、 清潔さの水準が似ているかとか、そういう生活上の一致不一致が重要になってきます。

もちろん、「目的別シェア」と「無目的シェア」は、厳密に分けられるものではなくて、あくまで理念型です。「目的別シェア」であっても、共同生活者の視点なしには成り立ちませんし、「無目的シェア」であっても、好みや趣味の偏りは自然に生まれてくるものです。それでもなお、どちらの要素が強いかによって、大まかな特徴や危険性を指摘することはできるでしょう。

その意味で久保田は、シェアに刺激や創造性を求めることは、シェアのイメージを「目的別シェア」に引きつけてしまうものだと考えています。共同生活の中での創造性や刺激は、どれほど重要だとしても二次的な要素で、あればラッキーなくてもOK、レベルのものに留めておくべきだと考えています。

なぜか。


2.日常の共有と非日常の共有

やはり舘野さんが日常と非日常について議論されていたので、この点から考えてみたいと思います。

日本へのコレクティブハウジングの紹介者の一人である建築学者小谷部育子氏は、コレクティブの理念が「非日常」の共有ではなく、あくまで「日常」の共有であることを強調しています。日常を共有するということは、週末にバーベキューをやることでも、夜中に一緒にゲームをすることでも、誕生日に友人を招いてパーティーをすることとも違います。共に食べ、一つ屋根の下で寝て、共に考え、共に決定し、費用を分担し、共に生きていくことです。

久保田もこの考えに共感します。このような意味で、シェアという日常の生活空間で創造性を強調することは、シェアを日常の共有という側面を覆い隠し、非日常的な魅力に還元してしまう危険性がある。たとえば、シェアを「毎日が合宿のようだ」とか、「毎日仲間とわいわい暮らせるなんて楽しそうだ」と形容することがありますが、これは非常に両義的です。当たり前のことですが、毎日が合宿なら、それは合宿ではない。日常から見て、非日常への「落差」は魅力的ですが、それは非日常が毎日続かないが故に魅力的なのです(ここれは詳しく触れませんが、これはジェンダーの問題でもあります)。

もちろん、家族主義的で孤立主義的な日本の日常観から考えれば、シェアは日常の意味それ自体の変革を伴わざるを得ませんから、外から見れば、家族との生活や一人での生活と比べて創造的だったり刺激的だったりすることは十分にありえます。いわば、既にある「日常/非日常」を超えた、「新たな日常」の創出を伴っていることは間違いないでしょう。

だとしても、居住者の視点からみればそれは、形を変えてもなお「日常」なのであって、たとえ友人の出入りが激しくても、毎週のように誰かが泊まって行ったとしても、それは新たな「日常」の出来事に過ぎません。日常と非日常が再編されることと、その区別がなくなることは全く別のことです。たとえばまた、どれほど外部に開かれたシェアであっても、居住者と外部の人間の境界は依然として存在しています。境界が曖昧になったり可変になったりすることと、境界が無くなることは別のことだからです。居住者は、自分たちの「日常」について議論し、妥協し、決定する必要と責任がある。

それゆえ、久保田はどちらかというと、「新たな日常」の中の「新たな」側面、すなわち外部から見れば刺激的で創造性の予感を感じさせるような派手な部分に目を奪われて欲しくない。むしろ、それがあくまで「日常」であること、それも共同的な「日常」である点を大切にしたいと思っています。もちろん、「日常」をどれだけ刺激的なものにしていくか、「日常」をどれだけ外部に開いていくかは、居住者の間の関心と意思決定にかかっています。あるシェアは、刺激的で創造的な開かれた「日常」に合意するかもしれませんし、あるシェアは閉鎖的で内向的な保守的な「日常」にこだわるかもしれません。その両方があっていい。そのどちらであっても、居住者によって共同的に選びとられるプロセスが何よりも重要なのです。

地味に思われるかもしれませんが、この点こそが、家族との暮らしや一人での暮らししか選択肢が無い日本の生活文化をより根本的な意味で変革する可能性を持っていると考えています。


3.「陳腐なシェア」のススメ

そんなわけで、久保田が考えるシェアは、元も子もない言い方をすれば、ひどく陳腐でつまらないものです。一人で住むよりも安いから他人と一緒に住むこと。一人よりも楽だから、他人と家事を 分担すること。もしもっとお金があれば他人と住むのなんて避けたいけど、お金がないから仕方なく住居をシェアすること。それでも、一人で住むよりは誰かが いた方が少しだけ安心で、ましだから他人と住むこと。「住むために住む」こと。シェアメイトに不満が山ほどあるし、もっといいシェアがあればすぐにでも移りたいけど、今のそれなり に機能していること。シェアメイトと仲がいいに越したことはないですが、仲が悪くたってかまいません。何の知的刺激もなくても、なんの創造性を発揮できな くても構わない。

繰り返しになりますが、久保田の考えるシェアは非日常ではなく日常の共有に主眼があります。日常にいちいち刺激や創造性を求めていたら、いつかは疲れてしまう。疲れてしまったら、長続きしないです。長続きしないと、結局はいわゆるフツーの生活に戻ってしまう。もちろん、シェアを経験し、他人との生活に慣れ、交渉や利害調整に長けた人がフツーの生活に戻るとき、フツーの生活自体が変革を迫られるという点では、これも非常に重要な側面を持っているともいえます。

それでもなお、より根底的な変革の可能性に賭けるために、久保田はシェアを非日常的な刺激や興奮と結びつけることを極力回避したい。地域の活動や、生協の活動、自治会やマンションの管理組合がクリエイティブでなくてもいいように、シェアもクリエイティブでなくてもいいと思うのです。これは、久保田が家族研究や生活経済研究の立場からシェアにかかわっていることと関係しているのかもしれません。


シェアは「創造の土台」であってもいい。

でも、別にそうでなくてもいい。「生活の土台」でありさえすればよいのです。


以上、舘野さんの議論に反論しているというわけではないのですが、力点の違いを整理したく思い、長文になってしまってすいませんでした。書評頂いたことに重ねてお礼申し上げます。余談ですが、舘野さんがシェア居住者へのインタビューから書かれていた「シェアは3人以上がいい」という点について、牟田和恵編『家族を超える社会学』に収録された久保田の論文の中で「二人性」として概念化を試みています。もし興味があれば。

『家族を超える社会学』紹介記事
http://www.synoikismos.net/blog/2009/12/post-13.html


「まれびとハウス」のみなさまにも、どうぞ宜しくお伝えくださいませ。


日本家族社会学会が今年は東京都世田谷区の成城大学で開催されます。久保田は報告はしませんが、2日間とも参加する予定です。楽しみです。

日本家族社会学会は、20年以上の歴史を持つ「家族社会学セミナー」を前身として、1991年に学会化されました。今年は学会化20周年として、初代会長の森岡清美先生の記念講演や、日本の家族社会学の20年を振り返るイベントなどが企画されています。

プログラムを見てみると、去年の奈良女子大学で報告されてた方が結構今年も報告されるみたいで、よく知った名前をいくつかみつけました。久保田は2007年の札幌学院大学での大会で報告したきりなので、来年か再来年には是非何か報告したいのですが。一応、心の中ではメインの学会なんですけど。

大会HPはこちら、
http://www.wdc-jp.biz/jsfs/conf2010/index.html

学会大会プログラムはこちら、
http://www.wdc-jp.biz/jsfs/conf2010/contents/program1.pdf

昨年の11月に新書を出してまもなく、fon-daさんのブログキリンが逆立ちしたピアスで『他人と暮らす若者たち』の書評を頂きました。もっとも、この記事はギークハウス京都のことなんかを紹介しながら「他人と暮らすこと」全般について論じていて、その一部として久保田の新書を紹介し、批判してくれているものです。その点では、厳密には書評じゃないのかもしれないけれど、でも、どうもありがとうございます。非常に嬉しく思います(現在は諸事情から更新を停止しているようですが、どうか、元気を出してください)。

それ以来ずっと、リプライしたいと思っていたのですが、できれば短いコメントや私信メールではなく、トラックバックできちんとお返事したいと考えていました。というのも、fon-daさんが指摘してくださった点は、まさに久保田が新書には書ききれなかったことでもあり、同時に、比較的よく誤解される重要な点を含んでいると思うからです。にもかかわらず、blogを開設するのに半年近くの歳月を費やす始末で、ずいぶんと遅くなってしまい、どうもすみません。

さて、fon-daさんは、新書での久保田の論旨に大筋で賛成したうえで、次のような二点(実際には三点)の批判を展開しています。以下、順に応えてみたいと思います。



1.ひとつめの批判:久保田の主張は過渡期的なシェアに留まるのか?

 その上で、二点の批判があります。一点目は久保田さんの結論が、「過渡的な共同生活のみを認める」という点に落とし込んでいることです。これでは、「自立を終えた若者たちは、最終的に家族で暮らす」ということであれば、"家族"像の固定化が維持されてしまいます。「若者が年をとり、壮年期を迎えてなお持続的に共同生活を営むこと」、もしくは「若者でない者が共同生活を始めること」に対してもまた、制度的な改変・保証が必要ではないかということです。


ご指摘の通り、新書では久保田はどちらかといえば「弱い」主張に踏みとどまっています。過渡的な共同生活「のみ」に絞った議論をしているつもりはありませんでしたが、どこか久保田の日和った姿勢を嗅ぎ取ったのだとしたら、思い当たる節があります。

ただ翻って言えば、久保田の弱い主張、「少なくとも過渡期的なものとして他人との共同生活の経験を制度化する」意義と可能性を、むしろfon-daさんが過小評価しているのではないか、と反論することもできます。これは、現行の家族中心の居住制度・文化が何によって維持されているのかに関わる理解と関係しています。以下の二つを区別してみましょう。

1)家族との生活(および一人の生活)以外の選択肢を選びたくとも、制度的に困難であるため(外的制約論)

2)家族との生活(および一人の生活)以外の選択肢が、そもそも文化的に選択肢になく、イメージできないため(内的制約論)

おそらく、fon-daさんは、2)外的制約論をベースに議論されてると思います。公団住宅により積極的にシェアが取り入れられたり、他人同士のシェアが不動産やや大家さんから拒否されないよう、制度的外堀を埋めていくことで、青年期だけでなく、老年期まで他人との生活をより送りやすくしていくべきだ、という主張かと思います。

これに対して、久保田は基本的に2)内的制約を重視しています。両者は絡まり合っていて厳密に区別できませんが、それでも、みんながシェアをしたいのに様々な制約があって阻まれている、というよりも、そもそもシェアする生活が選択肢に入っていない、というのが久保田の現状認識です。第一の根拠は、、シェアはそれ自体、経済的メリットがある以上、現在一人暮らしをしている程度には経済的な基盤がある人なら、理論的には誰でも、すぐにシェアを始めることが可能だという点です。もちろん、契約の不便や家族向けの住宅の構造、周囲の無理解といった外的な制約は存在するものの、現に少なくない人が様々な工夫をしながらシェアの経済的メリットを享受している。シェアが選択肢に入りさえすれば、それは既に、ある程度困難であっても、ある程度は実行可能な選択肢なのです。

第二の根拠は、根拠というよりも理由というべきかもしれませんが、久保田は一人暮らしや家族や恋人との居住を否定しているわけではありません。一人で暮らしたい人は、経済的な非効率を背負ってでもそうしたいならば、一人暮らしを楽しめばいい。恋人との共同生活にあこがれる人は、その構造的な困難を押してでもそうしたければ、止める理由はありません。どんな生活を選ぶかは、基本的には個人の経済力に応じた自由に属するものだからです。

その意味でも、久保田のメージする制度は、義務教育や、大学の広域必修科目(distribution requirement)や、救命救急訓練のようなものです。それは、若い時分、自分の興味や専門とは関係のない、たとえば音楽や美術、数学や生物学や英文学の単位を組み込まなければ卒業できないように、たとえ興味がなかったとしても社会で必要な教養やスキルを体験し、学び、自分の興味自体を相対化してい機会を強制される。あるいは、たとえ興味がなくとも、自分や他人が危機的状況に直面したときに、協力して適切な対応がとれるよう訓練を強制される。その意味で、久保田のイメージする制度化は、基本的にパターナリスティックな性質を持つものであり、それゆえ、最低限に留める必要があるのです。

第三は、二つ目の点ときわどく交錯する点ですが、保障に議論の困難に関するものです。上で、どんな生活を選ぶからは基本的には個人の自由に属すると書きましたが、それは経済力に応じたものでした。では、経済力がない人はどうするのでしょう。一方で、所得が少ない人は、たとえ一人では生活できないとしても、他人と住居を分け合う選択肢を獲得することで、住居を維持することが可能になるかもしれない。ところが他方で、どうしても他人と暮らすなんてごめんだという人は、他人との生活を選ぶくらいならホームレスになってしまうかもしれない。

すると問題は、社会が個人に保障する最低限の居住を、どのような共同性の元に置くかということに収斂します。居住福祉の手薄な日本ではイメージしにくいですが、全ての人に/あるいは低所得者に保障されるべき公営住宅とは、他人と一切かかわらずに一人で生きていけるような生活を基準に設計されるべきでしょうか、それとも、家族を含む生活の共同がある場面を基準に設計されるべきでしょうか。もちろん、両極の間に最適点があるはずですが、共同性による経済効率を考慮すれば、基準を孤立した生活の方に近づけるほど福祉は財政を圧迫し、逆に、基準を共同的な生活に近づけるほど低所得者は事実上、共同性を強制されることになる。このような居住における自由と保障のディレンマについて、久保田はまだ明確な回答を持っていません。


以上が、内在的な制約論をベースにする久保田が、なぜ日和ったことしか書けないのかについての釈明です。fon-daさんの言われることはもっともで、是非、あと一歩踏み込みたい気持ちはあるのですが、そのためにはクリアしなければいけない理論的なハードルがいくつかあるように思います。特に、第三の点については、みっつめの批判にも関連しますので、最後にまた戻ってこようと思います。

次に、ふたつめの批判に関して。


2.ふたつめの批判:同居に伴う暴力の可能性について

 二点目は、共同生活の中で起きる感情的ないざこざをどうするのか、という点です。久保田さんは、そうしたいざこざは、家族の中でも起きることであり、他人と暮らすことだけが問題ではない、と強調します。だからこそ、家族でなくても「親密な関係 における暴力」は起きる点を見逃してはならないと思います。現在、家族の「親密な関係における暴力」はDV法を始め、問題化され、防止のための法制化や支援が整備され始めています。ですが、「友人同士の暴力」は、いまだに「たかだか喧嘩」として不当に軽んじて扱われています。友人同士での性暴力(同性間含 む)に対して、警察や法務家の対応はひどい状態です。もちろん「家族だから安心、他人だから危険」だということではなく、「家族でも危険、他人でも危険」 だということです。「誰かと暮らすということ」は、相手が家族だろうが他人だろうが、面白いことでもあり危険なことでもあります。


この第二の批判については、正直どういう批判なのかよく分かりませんでした。いろいろ考えたのですが、もし次のような点を批判しているとしたら、非常に重要な点を突いているのだと思います。論点を解きながら整理してみますので、間違っていたら教えてください。

まず、終章でも述べたとおり、他人とのいざこざやいさかい、物理的な暴力に至らない喧嘩や傷つけ合いは、避けるべきことでも危険視すべきことでもありませ ん。大けがに至らない形で火傷をしたり、傷つけ傷つけられて和解する訓練は、生きる上で必要なことでもあります。むしろ、それら一切から守られるべきだ/解放されるべきだという発想の方に、久保田は強い危機感を感じます。

すると問題は、このような関係の訓練の場を構築するために、

1)円滑な衝突が可能な他人を、どうやって選んでいくことができるのか(選択可能性)

2)物理的暴力や、精神的に耐えられないほどの打撃を受ける前に、関係を解消すること担保されているのか(解消可能性)

3)万一、危険な暴力に発展した場合に、外部からのすみやかな介入によって危険を除去できるか(危機回避の確実性)

という三つのレベルで議論が可能になります。久保田が最も重視しているのは、1)選択可能性と2)解消可能性のレベルです。共同生活者を選ぶことを、常に血縁や性愛と結びつけて考えることは、1')愛や血縁の名の下に共同生活の視点から共同生活者を選ぶことを困難にし、2')制度的な束縛により、危険を察知しても関係を解消して共同生活から離脱することが困難になるからです。

これに対して、おそらく、fon-daさんが問題にしているのは、その先の、3)危機回避のレベルなのだと思います。この点について議論する前に、親密な関係における暴力の問題を、DV防止法の例を取り上げて検討しておく必要があるでしょう。

DV防止法というのは、刑事法上、捻れた位置づけにあることを確認するところから始めましょう。身体的暴力に限って議論すれば、DV防止という概念によって禁止されるべき暴力は、当然のことながら傷害罪や暴行罪といった刑法によって既に禁止されているのであって、形式的にはとりたてて新たに法で禁止しなくとも取り締まることが可能なはずです。にもかかわらず、DV防止法が、冗長を犯してまで家庭内の暴力を禁止するのは、「法は家庭に立ち入らず」といった近代法の暗黙のルールによって、形式的には明らかな傷害罪に該当しても、法実務はこれを犯罪とは見なしてこなかったという歴史の反省の上にたっているからです。つまり、「刑法により犯罪化→(夫婦だから免罪)→DV防止法により再犯罪化」という捻れた論理の上にある。

だとすると、一方で、赤の他人による暴力は刑法によって犯罪化され、他方で、夫婦間の暴力はDV防止法によって再犯罪化される。ところが、その中間に、赤の他人ではないが、夫婦ほど暴力の温床とはみなされてこなかった、恋人関係や友人関係がとりのこされ、救済されないという事態が生じうるし、現に生じている点を問題化することが可能になります。fon-daさんの指摘がこの点に関連したものだとすれば、全く的を射たものだと思います。性暴力でいえば、他人からの性暴力と、恋人からの性暴力が問題化される一方で、親しい男友達や知り合って間もない友人からの性暴力が、どちらの問題枠組からもこぼれ落ちる可能性は十分にありえます。シェアの中で性暴力があった場合、「そんな不用心な生活をしていた」女性の自己責任に帰される可能性もある。

ただし、この点が問題だとすると、この種の危険はfon-daさんがおっしゃるように、家族であっても友人であっても他人であっても一律に存在する一般的な危険というより、特に、家族や恋人関係を外れた「非正統的な親密さ」における暴力の可能性に対して、法がどのようなスタンスをとるべきかという、ずっと特殊化された問題設定が必要なのではないでしょうか。これは、fon-daさんがおっしゃるような「感情」の問題と言うよりも、「危機回避」の問題として位置づけるべきかと思います。


最後に、みっつめの批判について。


3.みっつめの批判:シェアに必要とされる最低限の自律に関して

 もう少し言えば、シェアハウスにおいても、「最低限の自立」は必要になってくると思います。たとえば、ある男性は住むところもなく、マクドナルドで知らない人に声をかけ、その人たちのところを転々とします。ギークハウスのphaさんのところにもくるが、入居を断られます。その顛末がブログ記事になっています


顛末は当該ブログ記事を参照してもらうとして、この最後の批判は、ひとつめの批判への応答の中でも取り上げた、自由と保障の問題と関わっています。

よく誤解されることですが、シェアは慈善活動でも人類愛に基づいた気高い運動ではありません。たとえば、久保田がシェアをするのは、自分の生活をより良いものにするために他人と結ぶ積極的な妥協であって、それゆえ、誰とでも共同生活が可能なわけではありません。入居者を面接するときに、この人とはとてもじゃないが住めないと思ったことも、どうせならこの人と住んだ方が面白そうだと思ったこともありますが、どれほど困っている人がいても、どれほど家を必要としている人がいても、久保田は自分の生活を犠牲にしてまでその人を受け入れようとしたことはありません。現在一人暮らしをしているひとがホームレスを受け入れないことや、現在家族と暮らしている人がリビングをシェルターに供しないのと全く同じことです。

同じく誤解されやすい点ですが、家族や恋人ではない他人と暮らすということと、他人なら誰とでも暮らせることとの間には無限の距離があります。その意味で、シェアメイトが誰でもいいわけではないのは、結婚相手が誰でもいいわけではないことに、ずっと似ています。性愛や相性を基準にするのではなく、共に住む能力や資質、意欲を問題にする点で、恋人選びよりも厳しい側面があるかもしれません。

このような誤解の背後には、新しい制度や仕組みを構想する人は、現在の社会の全ての暴力や抑圧を全てまるごと解消する方法を提案しているはずだ、という思い込みがあります。もちろんそんなことは不可能なわけで、そもそも抑圧や排除、権力関係を完全に解消することが、可能なのかも望ましいことなのかも明かではありません。その意味で、久保田のイメージするシェアは、排他的で差別的なものであることを否定しません。気が合う人だけ、ある程度利害の一致する人だけで協力し合うという意味で、シェアは偏狭な利益集団だと言われれば、そうなのかもしれない。ただ問題は、家族制度に比べてどれだけ排他的で差別的かは、まだ十分に議論されていないという点です。どの程度、異質な他人を排除してよいのか、排除すべきなのかは、他人との共同生活を推進する者だけに投げかけられた問いではない。おそらく、fon-daさんもこの点を踏まえて議論されていると思います。

すると問題は、fon-daさんがおっしゃるような「感情」の問題ではなく、他人と暮らす能力がない人、他人と協力することが出来ない人を、社会がどのように扱うかという政治と保障の問題につながっていきます。ちなみに、協力できないどころか危害を加える人を、私たちは刑法によって排除しています。ここで議論を展開することはできませんが、次の点に重要な問いに留意する必要があるでしょう。私たちの社会は、他人と協力し合って生活することを単なる個人の物好きな選択の一つにすぎないと捉え、それを望まない人々が孤立して生きることを権利として保障し、そのために必要な資源を共同的に拠出すべきでしょうか。それとも、私たちの社会は、他人と協力し合って生活することを大切な価値だと捉え、強制しないまでも義務教育や市民教育の中に組み込み、逆に、孤立した生活を経済堤に豊かな人の物好き/贅沢と捉えるべきでしょうか。

まだ明確な結論はありませんが、カント主義的な個人の自律をベースにしたこれまでの個人と家族をめぐる議論は、家族という特定の共同性の強制を拒否することと、他人との共同性一般を拒否することを区別して来なかった。この点に留意して議論する必要があると思います。


というわけで、fon-daさんの書評に刺激を受けて、いろいろ頭の中を整理してきましたが、十分に応えられたかどうかは分かりません。余談ですが、フリーターズ・フリーに寄稿された論考も、非常に興味深く拝読しました。近畿にお住まいの院生さんと聞いていますので、またどこかで議論する機会が頂ければ嬉しく思います。

重ねて、どうもありがとうございました。


生まれて初めての電子書籍での読書が終了。
8/27日発売の新型Kindleの購入に先駆けて、iPhoneにインストールしたKindleでダン・ブラウンの新作を読んでみました。写真を貼ろうと思ったら、アメリカのアマゾンでしか売ってないんですね。
↓これは、一世代前のKindle用の液晶保護シート。

↓こっちは、アメリカのアマゾンの商品説明

以下は、iPhone版Kindleの感想です。

・論文や学術書はともかく、小説なら小さな画面でも十分読めることを知った。縦でも横でも、その都度、読みやすさよりも持ちやすさを重視した体勢で読書可能で、慣れればもっと小さい携帯画面でも読めるかもしれない。その意味では、わざわざ画面の大きなKindleを購入する意味は薄いかも。もっとも、段落位で意味をとっていく論文や学術書の場合は、果たしてKindleであっても十分かとうかは、実際に体験してみないと分からない。

・電車の中や、喫茶店など、気軽に取り出して続きが読めるのは何よりも嬉しい。
ただ、iPhone自体がそれほど持ちやすい形をしているわけではないので、一冊の本を持ち歩いて読む人にとっては、どれほど便利かわからない。むしろ、何冊かの本を浮気しながら読みたい人の方が、活用できるかも。小説やノンフィクション、古典や雑誌など、さまざまな本が一度に持ち歩けるかどうかも重要で、コンテンツの充実に期待。早く日本語にも対応して欲しい。他方で電車やバスの中では、たしかにiPhoneの液晶が見ずらいことも多く、これはe-inkを使った新型Kindleに期待ですね。

・指で単語をポイントすると、英英辞典が起動するのは素晴らしい。ただ、オックスフォードの学習用辞書が収録されているので、定義が回りくどくてやや不便。ひとつは、ダン・ブラウンのような象徴・記号学、オカルティズムを扱った小説を読むには、学習用辞書では語彙数が少なくて、辞書に載っていない単語がかなりあった。ふたつめは、小説を読むレベルでは、簡単な同義語で言い換えてくれれば十分で、厳密な意味が欲しいわけではないから。たとえば、「yank=pull strongly」とか。英英ではなくて、英和が欲しい人も多いはずで、英和でいえばリーダーズのようなアッサリした翻訳用の辞書が欲しいかも。要するに、辞書が選択できるといいんですけど。また、辞書機能がPC版のKindleでは使えないのも、iPhone版に慣れてしまうと非常に不便です。

・関連して、単語をポイントすると、上または下のウインドウに辞書の検索結果が6行ほどで表示されると同時に、ハイライトするか/ノートをつけるか選べる画面になります。ここで、iPhoneユーザーならおなじみの、始点と終点を操作して必要な範囲を選択することができることになっています。問題のひとつは、この段階で、iPhone版Kindleがひとつの単語として認識する範囲がうまくいかないこと。たとえば、「strange things―when she turns」という文字列があると、thingsとダッシュとwhenをひとつの単語として認識してしまい、この選択範囲が修正できません。結果、strange thingsだけを選択することもできないし、whenだけを選択することもできず、要するにこの位置にある単語が辞書でひけません。そもそも、連語を辞書として引けないのもやや残念です。

総じて、はじめての電子書的体験はとても素晴らしかったです。新型Kindleを購入して一冊読み終わりましたら、またレビューしますね。The Lost Symbolに関しては、邦訳の方を案内しておきます。

既に終わってしまいましたが、先日参加してきたイベントを紹介しておきます。 
okupa.png

久保田はアムステルダムのスクワットについて報告しました。
大阪市立大学の坂田さんからは、デンマーク、パリ、ベルリン、バルセロナのスクワットに関して写真を交えての紹介がありました。
普段とはちょっと違った人たちと議論できて楽しかったです。

今後は、イベントより前にちゃんと告知できるようにしますね。

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openlab.12 / OKUPA=メイキング・スペース・イン・ザ・シティ
http://alter-laboratory.tumblr.com/post/945501262/openlab-12-okupa
「占拠」という意味を持つ「オクパ(OKUPA)」は、8月初旬からLABORATORYで行われている「STORE LAB.」のテーマです。openlabでもこのテーマをジャックした「オクパ」というテーマのプレゼンテーション&ディスカッションを行います。

使われなくなった建築物に忍び込んで自分たちのモノにしてしまうけしからん人たち。「オクパ」つまり「占拠」あるいはそれと類義の「スクウォッティング」という言葉からまっさきに浮かび上がるのはこうした人々の姿でしょうか? それとも競売物件に忍び込んで立退料をせびる悪い人たちの姿? でもよく考えてみれば、 当の建築物だって都市空間を占拠しています。都市を占拠するビルの反射面を鏡に練習をするダンサーや、公園の設備や物理的な起伏へと挑戦するスケーターも「オクパ」する人。「不法占拠」のようにイリーガルなイメージをもたれがちな「占拠」ですが、思っているよりも日常生活から遠くにある話じゃありません。私たちの空間使用の一形態としてある「占拠」 をひとつのキーワードにして、都市の中で「メイキングスペース」することについて、一緒に考えてみませんか?(RAD)
【日時】2010年8月21日(土)17:00から
【会場】LABORATORY(京都市中京区恵比須町531-13-3F)
【予約】いりません
【参加費】いりません
【テーマ】オクパーメイキング・スペース・イン・ザ・シティ
【ゲスト予定】
久保田裕之さん(リサーチャー、『他人と暮らす若者たち』著者)
坂田堅治さん(大阪市立大学博士課程在籍)
武田憲人さん(一級建築士事務所「expo」主宰)
中西ひろむさん(一級建築士事務所「中西研究所」主宰)
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【プログラム】
 17:00から19:00  つかう「オクパ」
19:00から20:00 憩&議論、質疑応答
20:00から22:00 つくる「オクパ」
ゲスト紹介
・久保田裕之さん(リサーチャー、『他人と暮らす若者たち』著者):
新しい居住関係の側面からスクウォッティングを研究され、諸外国での事例にもお詳しい久保田さんには、それらの事例紹介やスクウォッティング以外の占拠についてお話してもらいます。「占拠」が可能にする「つながり」とその可能性や問題点について考えるきっかけをいただけたらと思います。

・坂田堅治さん(大阪市立大学博士課程在籍):
「クリエイティヴシティ構想」の側面から、その考え方への批判的意識も持ちつつスクウォッティングを研究される坂田さんには、その成果をレポートしてもらいながら、都市空間において「占拠」という使用手段が持つ可能性や問題点がどのようなものであるのかを話していただきます。

・武田憲人さん(一級建築士事務所「expo」主宰):
街全体が文化的な価値を持つ京都という場所で建物を作っておられる武田さんには、そうした状況において既存の空間をどう新しく変えていくのかというお話をいただきます。個性的なお施主さんにあわせて、元あった空間をつくりかえること、空間自体が変わっていくこと等へと話を接続します。
・中西ひろむさん(一級建築士事務所「中西研究所」主宰):
京都を拠点とされながら、瀬戸内国際芸術祭2010において男木島でのプロジェクトを行われている中西さんには、ある具体的な場所とめぐりあうこと、そしてそこに介入していくことについ
て、その際建築家としてどのような役割を想定しているのか等についてお話していただきます。

2010年の2月ごろ、ブログ「つーりずむ」を考える・・・?!にて、『他人と暮らす若者たち』に関する書評を頂きました。どうもありがとうございました。

早くお礼とコメントを返さなければと思いつつ、ずいぶんと遅くなってしまったことをご容赦ください。石川さんは、観光という視点から居住型ゲストハウスにおける異文化交流に着目しているユニークな方で、現在は北海道大学の博士課程の在籍されているとのこと。以前は旅行会社で働かれていたと聞いています。

やはり、一番興味を曳かれたのはその視点の違いで、たとえば石川さんは次のように書かれています。


久保田氏が調査されたルームシェアではトラブルなどはあまりないのかもしれませんが、ゲストハウスはインターネットを通して様々な国籍・文化・価値観を持った人びとが絶えず出入りしているためか、トラブルも見られます。
例えば、いじめ・無視、人種差別、盗難などが挙げられます。
まるで、現在の「学校」や「社会」を見ているようです。

こういったトラブルを解決・改善するためには、ゲストハウス事業者はどこまで介入するのか、居住者間で何らかの合意形成が行われるのだろうか(どんなきっかけで?)、などと疑問は尽きません。 

近年のシェアハウスの盛り上がりを支えているのは、石川さんが指摘されているような「居住型ゲストハウス」、別の言い方をすると、事業者介在型のシェアハウスです。これに対して、久保田が対象としているシェアハウスは、いわば自主運営型とでもいうもので、事業者を置かずに自分たちでシェアを切り盛りしているタイプのものです。

この事業者介在型のシェアハウスは、近年のシェアハウスの認知度や、快適でリッチなシェアのイメージを広げるのに非常に大きな役割を果たしています。久保田が調査を始めた2003年には、まだそれほどプレゼンスはなかったのですが、ここ5年では、無視できないどころか業界をリードしているとさえいえるでしょう。それゆえ、2009年の段階でシェアの本を出すならば、もう少し紙幅を割いて紹介し、その意味について論じるべきでした。たとえば、居住者間のトラブルに事業者がどうかかわるのか、居住者の合意と事業者の利害が対立した場合はどうするのか、両者の本質的な違いは何か、などなど。石川さんの疑問はもっともだと思います。

これに加えて、石川さんが投げかけるより重要な問題は、住むこと/旅すること、というより根本的な区別です。「ゲストハウス」というのは、本来、世界的には貧乏旅行者向けの安宿で、一つの部屋に複数の二段ベッドを備えたドミトリーを指すのが一般的です。これに対して、東京で「ゲストハウス」というと、一般的にはもう少し中期・長期的な入居も可能な宿泊業を指し、長期滞在の旅行社のみならず、日本人の入居者も多く存在し、実質的に事業者介在型のシェアハウスを指すことになっています。違いがあるとすれば、外国籍の旅行社を同じように受け入れるか、どの程度短期の旅行者まで受け入れるか、といった点でしょうか。実際、日本で初めてと思われるシェアハウスに関するアンケート調査(下記、『若者たちに住まいを!』収録)は、実際には、このゲストハウスを対象に行われています。

ここで、本来すぐに立ち去るはずの旅行者が住み着いて出来た「居住型ゲストハウス」と、定住者同士が短期的に出会う「シェアハウス」が、際どく交錯します。

この交錯は、そもそも定住するとはどういうことだったのか、翻って、そこから旅をするとはどういうことなのかという、非常に近代的で社会学的な問いを喚起してしまう。なぜ、二カ所に同時に住むことはできないのか。なぜ、4つの家を回りながら住むことはできないのか。なぜ毎晩同じ場所に寝る必要があるのか。住むことと、旅することの本質な違いはどこにあるのか。それは、いつから始まったのか。これらの問いが資本制における賃労働と私的所有に、国民国家における国民の管理と徴兵/徴税に、家父長制における女性の支配と次世代の再生産に、何らかの形で関連していることは明らかでしょう。

グローバル化によって、旅することや移動すること、翻って、定住することや領域内にとどまることの意味が問い返されている現在、久保田が発した日本のシェアの議論が、いきなり観光や旅行といった一層メタな平面でひっくり返された感があり、驚きとともに納得を感じました。以前、久保田は、シェアを家族と対比して、異文化交流に例えたことがありましたが、「異文化」をやや狭く考えていたのかもしれません。その意味では、ゲストハウスのみならず、日本でも行われている英会話学習目的の外国人とのシェア、異文化交流の目的を強く持った留学生のホスト、外国人と日本人が混ざり住む京都の長屋、海外でのホームステイや、B&Bの経営、ワーキング・ホリデイなど、居住と旅とを連続的に捉える視角も必要なのかもしれません。

まとまりのないリプライですが、いろいろと考えるヒントを頂いた気がします。

重ねて、どうもありがとうございました。


研究所の同僚の桜井靖久氏より、鈴木洋太郎・桜井靖久・佐藤彰彦著『多国籍企業の立地論』を頂きました。桜井さんの博論を含めて、3人の研究者の論文4編が収録されています。専門分野の異なる、年の近い研究者からは、いつも新しい刺激を受けます。いつもお世話になります。これからもどうぞ宜しく。USJ内アミティヴィレッジでの研究会、今年こそ実現しましょう。
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